化学物質過敏症、発症の経緯
吸湿発熱シャツに触れた直後、体がジンジンとしびれるように反応し、耐えがたい苦しさに襲われました。
何度洗い直しても症状は収まらず、「いったい何が起きたのか──」。
困惑と恐怖に包まれた瞬間でした。
私の症状が始まった瞬間
2023年12月9日。
何をしてもダメだった。絶望の中で始めた仮説検証
そのその後、あらゆる衣服に反応するようになり、日常生活が困難に。
父とパートナーとともに、手探りの仮説検証が始まります。
- 静電気を疑い、霧吹きやアーシングを試す
- 陽電化を疑い、竹炭やお香を導入
小さな改善はあったものの、根本的な解決には至りませんでした。
洗濯機が使えない!
柔軟剤を使用していた洗濯機が、衣服に臭いを残してしまうことに気づきました。
「そんな馬鹿な」と思いつつも、体が拒絶する。
そこで、簡易型の洗濯機を導入しましたが、「洗い→すすぎ、洗い→すすぎ」を2回繰り返す作業は、想像以上に大変でした。

お気に入りの服との別れ。生活を守るために捨てたもの
2024年2月。
ある日、いつものように服に袖を通した瞬間、
ふわっと漂う洗剤や防虫剤の臭いに、体が激しく反応しました。
めまいと、皮膚の内側から湧き上がるようなジンジンとした痺れ。
お気に入りだったはずの服が、突然、体を追い詰める存在になってしまったのです。
一枚、また一枚と、クローゼットから服を取り出しては袋に詰め、
ほとんどすべての衣類を手放すことになりました。
袋の中に積み上がっていく服を見ながら、
「どうしてこんなことに」と、やりきれない思いが胸を締めつけました。

さらに深まった絶望――生活用品さえ受け付けない体に
3月になると、さらに状況は悪化しました。
通販で届いた箱を開けた瞬間、
段ボールに染みついた臭いに体が反応し、めまいが襲ってきます。
トイレットペーパーからも微かな薬品臭を感じ取り、
本に印刷されたインクの匂いですら、体が拒絶反応を示すようになりました。
次第に、購入した物品を室内に持ち込むことさえできなくなり、
生活の幅はどんどん狭まっていきました。
殺虫剤と化学物質に追い詰められて――思考が乱れる体験
家の中に漂う、殺虫剤や接着剤、ペンキの臭い。
そのすべてが、頭の中を激しく刺激し、
思考はぐちゃぐちゃにかき乱されていきました。
何を考えようとしても、すぐに言葉が途切れ、
自分の心と体を、もはやコントロールできなくなっていました。
私は震える手で父に頼み、
化学物質を含む製品をすべて撤去してもらいました。
それでも追いつかず、
便利屋に依頼して、ダンボール数箱分もの荷物をまとめて処分。
家の中から、少しでも「毒」を遠ざけようと必死でした。
パーマで引き起こされた、危機的な瞬間
4月。
父が美容院でパーマをかけた帰宅直後、
私は激しい異常反応に襲われました。
全身に蕁麻疹が広がり、体の奥から警告のような痛みが走る。
直感的に「このままでは危ない」と感じ、
自転車を飛び出すようにして、多摩川へと逃げ出しました。
通常のホテルに避難することも考えましたが、
ロビーに漂う洗剤の臭いを想像しただけで、体が反応してしまう予感があり、
結局、踏み切ることはできませんでした。
苦渋の末、80代の父に、ホテルでの滞在をお願いするしかありませんでした。
ずっと原因不明だった不調――化学物質過敏症という「症状の正体」
症状について必死に検索を重ねる中で、
「化学物質過敏症(CS)」という病名に辿り着きました。
問題が定義できれば、課題も設定できる。
混乱していた心に、ようやく小さな希望の光が差し込みました。
診療機関を探し続け、たどり着いたのは、
湘南鎌倉総合病院の専門外来。
2024年5月13日、初めて診察を受けることができました。
この日の診察では、先生から詳しい説明がありました。
【血液検査】
- 6月12日に結果が出るので、再度来院すること
【原因について】
- アレルギーとは関係がない
- 海馬(脳の記憶を司る部分)が過剰に反応している
- 慢性疲労症候群と同じメカニズムが関与している
【治療について】
- ビタミンD、亜鉛、カルニチンが不足しているケースが多い
- 処方薬はリリカ
- 効き目がある場合は、1週間ほどで効果が現れる
迫り来る塗装工事、化学物質過敏症のリアルな避難体験
2024年5月7日。
ちょうど自宅前では、大規模施設の建設工事が進んでいました。
夏以降に塗装が始まる可能性が高いと想定していましたが、
問い合わせたところ、なんと6月1日から塗装が始まるというのです!
私の体はフラフラ。
父は80歳を超える高齢です。
しかし、もう時間がありません。
近所の賃貸アパートの内見を、翌日から開始しました。
1日3件くらいのペースで、実際に足を運んでみたものの、
- 退去後のクリーニングの臭いでダメ
- 近所にヘビースモーカーがいてダメ
- カビ臭い臭いがしてダメ
1週間で10数件の物件を見ましたが、結局、どれもダメでした。
過敏症患者にとって、住む場所を探すことが、
こんなにも大変なものだとは思いもしませんでした。
「万事休す。」
塗装工事で避難生活へ――お隣さんから届いた“別荘を使ってください”の言葉
「もう、詰んだ。」
そう思っていた時、なんと──!!
お隣の方から、長野県の蓼科に別荘を所有しているので、
ぜひ使ってくださいとオファーを頂きました。
20年もお隣同士だったのに、そんなことは全く知りませんでした。
なんとありがたいことか。
20年間、あいさつ程度だった隣人からの、
“別荘使っていいよ”という一言。
その温かさに、涙が止まりませんでした。
化学物質過敏症でも過ごせる?蓼科の別荘地を下見した記録
2024年5月15日。
別荘のオーナー、父、私の3人で、長野県の別荘の下見に向かいました。
オーナーは87歳、父は82歳、私は51歳。
本来であれば私が若い分、サポートする立場なのに、
実際は助けてもらってばかり。
本当に申し訳なく、そしてありがたい気持ちでいっぱいでした。
現地に到着後、室内の環境を確認すると、
床と天井には天然木が使われ、壁は漆喰仕上げ。
嫌な臭いも一切ありませんでした。
――「ここしかない」。
そう確信し、その場でお借りすることを即決しました。
ただ、当時は体調がかなり悪く、片道4時間の移動は身体に堪えました。
帰り道では吐き気がひどくなり、パーキングエリアで長めに休憩をとらせてもらうことに。
それでも、往復8時間の運転をしてくれた父には、
ただただ感謝の思いしかありませんでした。


化学物質過敏症に優しい環境を求めて――東京から蓼科への避難体験記
2024年5月27日。
塗装工事を避けるため、蓼科での避難生活が始まりました。
ネット環境を整え、生協の定期宅配を手配。
自然の中で、少しずつ体力と気力を取り戻していきました。
毎日見かけるシカたち。
ご近所さんとの立ち話。
東京では感じられなかった「人の温かさ」に、心が癒されました。



化学物質過敏症の避難生活――蓼科で少しずつ取り戻した穏やかな日々
2024年6月〜8月。
別荘のバルコニーで過ごす穏やかな時間。
白樺湖の散策。
心も体も、少しずつ元気を取り戻していきました。




家族の支えに救われた日――化学物質過敏症と向き合う私のランチ時間
6月17日。
パートナーが仕事の合間を縫い、わざわざ東京から長野まで会いに来てくれました。
たった一泊の短い滞在でしたが、その気持ちが本当にうれしく、胸がいっぱいになりました。
父と私、そしてパートナーの3人で、
「ガムラスタン」というレストランで食事をしました。
※食べログによる「ガムラスタン」の紹介
https://tabelog.com/nagano/A2004/A200403/20000028/
静かな山の空気の中で囲んだ食卓は、
これまでの苦しみをほんのひととき忘れさせてくれるほど、温かいものでした。
「遠いのに、忙しいのに、ここまで来てくれた。」
その想いが、じんわりと心に沁みて、
言葉にはできないほどの感謝の気持ちで満たされました。
あの日の穏やかな空気と、
二人に支えられているという実感は、
今も私の心をそっと照らしてくれています。


化学物質過敏症の私が、除草剤の散布で逃げ場を失った夏
8月。
静かな避難生活にも、また新たな試練が訪れました。
ご近所で除草剤が撒かれたことにより、再び体調が急激に悪化。
ここにいても、不調。
一方、東京の自宅前では、塗装工事が本格化していました。
どちらに身を置いても、安らげる場所はない――。
二者択一を迫られた私は、
山の中では対応の自由が利かないことを考え、
「一度、自宅に戻り、そこから次の手を考えよう」と決断しました。
こうして、東京の自宅へ帰ることになります。
逃げ場のない自宅で命の危機――化学物質過敏症による体調悪化の記録
自宅周辺では、すでに塗装工事とシーリング作業が進んでおり、強烈な化学臭が周囲に充満していました。それでも、最初の自宅周辺では、すでに塗装工事とシーリング作業が進んでおり、
強烈な化学臭が周囲に充満していました。
それでも、最初の2週間ほどは何とか耐えていました。
けれど、じわじわと、体は限界に向かっていきます。
9月中旬。
体調は急激に悪化し、ついには食事も水も一切受け付けなくなってしまいました。
【1日目】
まだ歩ける。とにかく様子を見るしかない。
【2日目】
体がフラフラと揺れ、意識もぼんやりしてくる。
炎天下のなか、水を一滴も飲めない。
喉はカラカラに乾いているのに、
水を口に含むと、全身がジンジンと痺れるように反応し、どうしても受け付けない。
「このままでは、確実に命を落とす。」
体の中で、静かな確信が芽生えました。
化学物質過敏症の命の危機に支援がない――行政・医療の制度的空白
このままでは命の危険があると判断し、当時通院していた湘南鎌倉総合病院に連絡を取りました。
しかし、担当医は出張中で不在とのことで、「症状が重い場合は、救急車を呼んでください」との案内を受けました。
そこで、119番通報を行い、救急搬送の相談をしました。
ところが、電話口で伝えた「化学物質過敏症(CS)」という病名に対し、担当者からは「当方ではそのような対応はできません」と、搬送を断られてしまいました。
やむを得ず、自ら複数の病院に直接電話で相談をしましたが、
「CSの受け入れは難しい」「対応できる医師がいない」「特殊な環境下での診療はできない」といった理由で、すべての医療機関から診療を拒否される結果となりました。
その時、私に残されていた選択肢はありませんでした。
医療にも救急にも頼れない状況の中で、ひたすら耐える以外に方法がなく、「制度の谷間」に放置されるとは、まさにこのことだと痛感しました。
命の危機が差し迫る状況にあっても、どこにも受け入れてもらえない、誰にも頼れない。
この国の中で、医療制度にも避難先にも支援にもつながれない人間が存在するという現実は、あまりにも過酷で、あってはならないことだと強く感じています。
化学物質過敏症で命の危機に直面――父とパートナーに事実上の遺言を託す
命の危機を感じた私は、
万が一の事態に備えて、父とパートナーにすべてを託す決意をしました。
- 銀行通帳
- 証券会社の口座
- 各種IDとパスワード
自分に何かあったときは、どうかこれらの整理をお願いしたい――。
震える気持ちで、ふたりに伝えました。
このときの心境は、今でもはっきり覚えています。
絶望と覚悟、そして、わずかな希望が、
静かに胸の中で入り混じっていました。
水すら飲めなかった化学物質過敏症の私に――ひとしずくの命がしみわたった瞬間
2日目の夜。
パートナーが買ってきてくれた、無農薬のプチトマトをひとつ、
恐る恐る口に運びました。
すると、体がそれを受け入れてくれたのです。
全身に水分が染み渡る感覚――。
まるで干上がった大地に、初めて雨が降ったかのようでした。
この瞬間、私は確かに「生きる」という方向に、引き戻されました。
命をつなぐ、小さな奇跡でした。
化学物質過敏症で食事もままならない中、父の弁当に命を支えられた日々
命を繋ぎとめたものの、
自宅前の塗装工事はなおも続いており、
ここに留まることは、もはや不可能でした。
幸いなことに、過敏症のコミュニティに所属していたご縁で、
一時的に避難できる施設にたどり着きました。
移動した当時の私は、
わずか30メートル歩くのもやっと、というほど衰弱していました。
食事を作る体力も気力もなかったため、
父が自宅から毎日、手作りのお弁当を届けてくれました。
慣れない手つきで、毎日キッチンに立ち続けてくれた父。
その姿を思うと、今でも胸が熱くなります。
さらに、避難先の施設オーナー様もまた、
とても親身になって過敏症に対する配慮や、生活の工夫を丁寧に教えてくださいました。
多くの人の支えによって、
私はようやく、再び「生きる道」を歩き出すことができたのです。
化学物質過敏症の生活を立て直す――衣食住・心・日々の習慣で少しずつ前へ
衣食住の見直し
まずは、暮らしの基盤を整えることから始めました。
食事や調味料はできる限りオーガニックのものを選び、体への負担を減らすよう心がけました。
衣服は化学繊維を避け、天然素材に切り替え、肌への刺激を和らげました。
また、洗剤などの生活用品は化学由来のものを手放し、体にやさしい石鹸成分のものへ見直しました。
けれども、道のりは決して順調ではありませんでした。
例えば、安心を求めて導入した浄水器が、「中空糸膜」の特有の臭いでかえって体調を崩す原因に。
ちょっと甘いものや小麦粉製品を口にすると、全身にじんましんが出てしまい、改めて食の影響の大きさを痛感。
また、ナチュラルクリーニングを目指してクエン酸で風呂掃除を試みたものの、吸い込んだ空気で体調を崩しダウンすることもありました。
そうした試行錯誤を繰り返しながら、「自分に合うもの、合わないもの」をひとつひとつ見極めていく日々が続きました。
日々の仮説検証
「何をすると不調になるのか」「何をすると回復に向かうのか」。
それを探るため、毎日小さな気づきを積み重ね、自分にとって最適な答えを模索し続けました。
記録していたのは以下の項目です:
- 起床時間
- 体重
- 便通の状態
- 食事内容
- 散歩の有無
- その他の体調に関すること
こうして日々記録を続け、不調や回復のきっかけを見極め、仮説を立て、検証し、改善を繰り返してきました。
ストレスの連鎖を断ち切り、「幸福脳」を育む
住環境や食事、衣服といった外側の環境を整えることは進みましたが、心にストレスを抱えたままでは、体の内側から不調を招いてしまいます。
そこで私は、ストレスを生む思考を一つずつ見つめ直し、前向きで幸福感につながる考え方へと意識的に切り替えていくことを心がけました。
「なぜ自分がこんな目に遭うのか」と考えると、気持ちは堂々巡りとなり、ストレスが増すばかりです。
そこで、これまでの困難を通じて得た学びや、感謝できることをノートに書き出すようにしました。
すると、気づきが生まれました。
・かけがえのない体験
別荘をお借りして自然の中で過ごし、貴重な時間を得られたこと。
また、ご近所の方と心を通わせ、鍵を預け合える関係を築けたこと。
・幸せの本質に触れる
普段の何気ない日常こそが、実は大きな幸せであることを実感しました。
過敏症になる前は、「もっと先へ」と焦り、目の前の幸せを見落としがちだったのです。
・「ありがとう」の日々
生活が落ち着いてくると、次第に「もっと快適に」「もっと欲しい」と欲望が顔を出し、かえって目の前の幸福を遠ざけていることに気づきました。
そこで、毎日感謝の時間を持つようにしました。
快適な布団の中で、きれいな空気を吸って眠れたことに「ありがとう」
無農薬の美味しい食事が摂れる事、農家、販売店の方に「ありがとう」
素晴らしいパートナーに恵まれていることに「ありがとう」
このようにして、衣食住、心身を整え、
着実に回復の道を歩み始めていました。
父に命の危機が迫った夜――化学物質過敏症で避難中に届いた絶望の知らせ
12月20日、夜8時頃。
突然、電話が鳴った。
昭和大学病院の医師からだった。
「お父さまのことでお伝えしたいことがあります」――。
その知らせは、衝撃的な内容だった。
父の右目が、その日突然失明したというのだ。目そのものの問題ではなく、MRIの結果、頭頚部に陰影が見つかり、検体を採取して真菌か腫瘍かを見極める必要があるという。
さらに追い打ちをかけるように告げられたのは、
「この後すぐ手術に入りますが、手術中に亡くなる可能性は40%です。どうか覚悟をお願いします」
という言葉だった。
手術は間もなく始まり、約2時間後に終了する予定だという。
その瞬間、私の心に、再び絶望の波が押し寄せた。
この1年間、父と二人三脚で乗り越え、ようやく落ち着きを取り戻しつつあったというのに――。
なぜ、またこんな試練が襲ってくるのか。
――結果として、
検体採取の手術は一応無事に終わった。
しかし、その後の道筋はまったく見えないままだった。
そして翌年、2025年1月8日。
医師は、誠実で、私たちにも理解できるよう丁寧な言葉を選びながら告げてくれた。
「ガン、ステージ4です」
耳に入った瞬間、頭の中が真っ白になった。
言葉の意味は理解できても、心が追いつかない。
父のそばで、どう声をかければいいのか、どう支えればいいのか――ただ立ち尽くすしかなかった。
あまりにも過酷で、残酷な現実が待っていた。
癒しは意識の変容から始まる――がんサバイバーに学ぶ心の回復術
時間的猶予はなかった。私はガンに関する書籍を次々と読み漁った。
『がんステージⅣ克服 「転移」「再発」「余命告知」からの回復記録』
『医者に頼らなくてもがんは消える~内科医の私ががんにかかったときに実践する根本療法』
『がんが自然に治る生き方――余命宣告から「劇的な寛解」に至った人たちが実践している9つのこと』
『サイモントン療法――治癒に導くがんのイメージ療法』
末期がんから生還した人たちに共通していたのは、
それまでの価値観を根底から覆すような、心の変化──意識の変容が癒しを生むということだった。
そして私は気づきました。
自分が化学物質過敏症の回復に向けて取り組んできたことは、がんを克服した人たちの体験談や医師の見解と驚くほど重なっていました。
これまでの歩みは間違っていなかったのだと、改めて確信し、そのノウハウを体系化して父に説明することにしました。
たとえば、
・感謝の気持ちを大切にすること
・取り越し苦労を手放し、今できることに粛々と取り組むこと
・病気の恐怖に心を奪われず、健康に意識を向けること
・ダメ出しをするのではなく、可能性に賭けて行動する
・麻雀など、これまで通りできることを大切に続けること
・甘い物や乳製品を徹底して控えること
・梅干しやレモンを毎食取り入れること
これらが、回復への道を支える大切な柱だと強く実感しており、今も実践を続けています。
ステージ4のがんが治癒した父――化学物質過敏症を通して得た“心の変化”
2024年12月20日
父は突然、右目の視力を失い、その日のうちに緊急手術を受けました。そして2025年1月8日、頭頚部(とうけいぶ)がんステージ4と診断されました。
それから約5カ月――
2025年5月13日にCTとMRIの検査結果が出ました。医師から「がんは画像上では確認できず、明らかに縮小しており、今のところ心配はいらない」と言われました。
2025年2月当時は、ガンにより頭蓋骨を突き破り、極めて危険な状態でした——。
「頭の奥が鈍く痛む」と訴えていた父ですが、現在は右目の視力こそ失ったものの、日常生活を問題なく送れるまでに回復しています。
振り返ってみると、本当に多くの幸運に恵まれていました。
2023年に、私自身が化学物質過敏症を発症し、健康への意識が大きく変わっていたこと。書籍により多くのガンサバイバーの知見に触れることができたこと。そして、パートナーがプロのヒーラーとして、健康に対する深い知識と経験を持っていたこと。
それらが支えとなり、父本人とも何度も相談を重ねながら、
納得のいく治療法を一緒に選び進めることができました。
父の回復は、医学だけでなく、人の力や知恵、想いの重なりが生んだ奇跡だったと感じています。
当たり前の日々が、どれほど尊いものか。今はただ、そのことを噛みしめています。
化学物質過敏症で苦しむあなたへ――同じ経験をしてきた私からのメッセージ
まだ体調は万全ではありませんが、
もし今、病や不安の中で悩んでいる方がいるなら、
私の気づきや経験が、ほんのわずかでも心の支えになれたら嬉しく思います。